わが国の看板はすでに古代に始まっていた。看板とはこの店には何を販売しているかを標識するものであるので、勢い商業はいつごろから始まったかということから述べねばならない。わが国の商業は「市」から始まる。市は日本語でいうと「イチ」である。これを通俗的にいうと、市とは交換または交換をする場所をいうのであって「毎日あるいは一定日に各種の貨物あるいは一定の物品を小売する商人が、露店あるいは店舗で買手を待っている一定の場所」と一般にいっている。「イチ」は古くより漢字の「市」か当てられ、その「市」は「説文」では「売買之所」とあり、「周易」には「日中為市、政天下民、聚天下貨、交易而退、各得其所」とある。
わが国の文献で「市」という文字が最初に現われたのは、日本最古の文献というべき「古事記」(歴史・神話の書。大安麻呂が、元明天皇の勅により稗田阿礼の誦習した帝紀および先代の旧辞を撰録して和銅五年献進したもの。)、「日本書紀」(奈良時代にできたわが国最初の官撰正史)、「風土記」(和銅六年、歴史編纂の材料として諸国に命じて国々の地名の由来・土地の肥痩・産物・古伝説などを記して朝廷に献じたもの。)を探究しても適当のものがないが、「日本書紀」の一書にアマテラス大御神が天石窟に籠られた時のことを叙して
於是、天下恒闇、無復昼夜之殊、故会八十万神於天高市、而聞之……
とある。それを同書の本文に比較して見ると、「八十万の神達が天安河辺に集まって、いかに祷るべきかについて相談された」と書いてある。「古事記」でも同様の場所になっている。いったいに記紀の神話や史的記述では、会議・盟誓・裁判など多数の人々が相集まった場所は、河原とか山麓とか野原とか、ひろびろとして展望がきき、だれでも集まって来て、これに加わり、そこで行なわれることを見聞することのできるような地勢をもったところであった。
神話の上では八百万神が神集いに集い、神謀りに謀られた場所は、多く天安河原となっているのに、独り紀の一書だけは上述のごとくに天高市としている。ゆえにこの天高市も天安河原も同一な性質を持っているものと考えてもよい。そうして天高市はおそらくは市場であろうから、市場は会議の場所であるとするのが穏当であろう。
しかるに「和漢三才図会」(江戸時代の一種の百科辞典。百五巻寺島良安著―正徳二年自叙)では市の創始者を聖徳太子(~622)としている。すなわち、「推古天皇九年、聖徳太子始市、使商賈知売買術、以蛭子神、為商買鎮護神、後世称恵美須、以為福徳神」と「商人の条にしるし、「市」の条では、これを三輪市だというている。すなわち「按、推古天皇朝、肇立六斎市、和州三輪市是始也」とある。
しかして三輪市というのは、三輪山の麓にあって海石榴市のことであり、また「古事記」にオホハツセノワカタケの命(雄略天皇)が長谷の百枝槻の下で豊楽をきこしめした時、皇后ワカクサカベの女王が詠まれた歌に、
やまとの此高市に、こだかる市のつかさ、新嘗屋に生ひたてる葉広ゆつ真椿、そが葉の広りいまし、その花の照りいます。高光てる日の御子に、豊御酒たてまつらせ、ことの語り言もこをば
の椿の葉の広がり、花の照った高市とも一致もする。
また「日本書紀」には雄略記にすでに河内の「餌香市」のことかあり、敏達記に大和に「海石榴市」および「阿斗桑市」の名があり、推古記に「海石榴市」の名が出ている。しかし聖徳太子を市の創始者とするのは特に文学芸術の進歩に異常に貢献した太子にいっさいの文化的施設を創始させたとする文化英雄的説話であって、これを歴史的事実と見ることはできないのである。しかし雄略、敏達、推古朝に市が相当に発達して、ほとんど純粋の経済的現象になっていたと見てもよい。しかしその市が人々に購買を示唆するにいかなる手段を取っていたかの記述は全然ない。おそらく当時の広告の手段は、だいたい原始的な「言語による広告」であって、いまだ看板は存在しなかったものと見るべきである。
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