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12/6/13
書籍「社労士が見つけた!(本当は怖い)採用・労働契約の失敗事例55」6/13発売しました。
12/3/28
書籍「社労士が見つけた(本当は怖い)解雇・退職・休職実務の失敗事例55」3/28発売しました。
11/12/21
書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)事業承継の失敗事例33」12/21発売しました。
11/11/2
書籍「税理士が見つけた!(本当は怖い)飲食業経理の失敗事例55」11/2発売しました。
11/5/11
書籍「公認会計士が見つけた!(本当は怖い)グループ法人税務の失敗事例55」発売しました。

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日本広告史を論ずるに際して、私は常に日本の広告は徳川時代において、しかも江戸において完成したるものであると主張するものである。天正一八年(1590)八月朔日、徳川家康(1542~1616)は江戸城に入った。かくして慶長八年(1603)二月一二日に征夷大将軍を宜下し、ここに初めて徳川幕府が創設されると同時に、江戸は従来全国各地にあった城下町から断然離れて、全国唯一の政治都市に転じた。のち、寛永十九年(1626)三月諸侯の参勤交代の制が確立するに及んで、江戸は俄然膨大なる消費都市になった。かくて江戸で広告が大なる勢力をもって発達したのも当然すぎる当然事とせねばならない。しかし江戸幕府も三代目家光(1604~1651)、四代目家綱(1641~1680)を境として、ようやく精神的に影が薄くなって来た。すなわち一般の士風、各般の世相が大いに変化しはじめた。堅牢無比とさえ思われた徳川幕府も町人階級が物質的勢力を得て、ようやく資本主義的気分がみなぎり、黄金の力をそのまま自己の生存欲の中心とし、元禄以降の町人は豪奢を中心として物質的欲望にふけって、感情生活は年とともに拾頭し、享保・寛政・天保の倹約政治もその効果を挙げることをえず、武士階級は館磨して町人の金権によって、ついに崩壊せざるをえなかったのである。しかし政治的にいうと、わが国における中央集権的封建制度が確立したのは徳川の江戸時代であったが、また経済的に地方経済が全国経済へと発展した時代であるともいえる。かくのごとく江戸は政治の中核部をなし、大坂は経済の中枢部であった。ゆえに、この江戸、この大坂は各特殊的に発達したので、この両都には、そこに全く相異なった型の町人が発生したことも、これまた当然の帰趨とせねばならない。すなわち江戸町人型と大坂町人型とが徳川幕府の政策に順応して発達展開したものといってよい。
秀吉は国民を士農工商の四階級に分けた。これが秀吉の唯一の治安維持策であったが、家康はそのまま、この政策を踏襲し、かつこれが封建制度の特色ともなった。士農工商の中の工商が町人なのである。しかして農と工とが武士のために生活資材を生産するところの社会的な奴僕であるとすれば、商人はこの生活資材は生産者たる農・工の手許から消費者たる武士の手許に運ぶ社会的な雑役夫であった。殊に商人は商品の販売より生ずる利によって、その生命を維持するのである。この販売より生ずる利がかれらの唯一の生活手段である。ゆえにかれらは販売による利を追求するほかに生活の方法はなく、その利が多ければ多いほど、その生活は安定する。ゆえに最高なる安定的な生活を確保せんがため、販売の安易と迅速のため広告に努力した。したがって江戸時代には広告が異常に発達したのもこれまた当然とせねばならない。
これを思想的にいうならば、江戸は全く新開地である。月が草から出でて草に入る茫々たる武蔵野の一角が急激に開墾されたのである。あるいは丘を切り崩して原となし、河を掘ってそこに水を通じ、海水をひたす芦荻の生い茂った卑湿の地を埋め立てて町となし、千代田城と八百八町が成立したのである。ゆえに平城京や平安京のごとくに劃然と市街が制定されず、雑然きわまる市街で、自由奔放な形式であったので、東西両市もなく、丸の内以外は自由澗達に随所に商店か存在し、したがって各商店は自由競争をしてきわめて繁栄に突進した。すなわち江戸には歴史もなければ、なんらの誇りもなく、因襲的なことも皆無であった。またそこに住んだものは全国より集まって来た田舎ものの揃いである。あえて江戸頭初の情景はいわずもがな現時の東京でもそこに歴然として植民地的な色彩きわめて濃いものがある。そこには統一というものがない。足ひとたび新市域に入らんか街の延び方にしても勝手放題である。道路も曲り曲って田圃路に町ができ、実に殺風景をきわめている。ゆえにえど当時の情景を思うの時、その殺風景、その混沌さは察してもあまりあるものがある。江戸人の気風には排他の観念もなく、きわめて澗達で放胆であった。したがって保守的でなく、進取の気力に汪溢なるものがあった。また時代の精神を容易に会得して、それに適応するにも迅速であった。
江戸は幕府の所在地で、天下の実権の存在地であるが、その住民は官僚に屈服する人民でなく、稜々たる野人気風があり、雷同性が強く、浮華の風はなはだしかった。これが江戸町人の勢力を発展せしめた原因であったが、また江戸の背景になんらの因襲的な要素がないという遠因にもなる。かくして広告は江戸町人の生命でもあった。しかしここには数多の江戸広告の中、本書の題名の示す「看板」についてのみ述べることにしたい。