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書籍「社労士が見つけた(本当は怖い)解雇・退職・休職実務の失敗事例55」3/28発売しました。
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11/5/11
書籍「公認会計士が見つけた!(本当は怖い)グループ法人税務の失敗事例55」発売しました。

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二 建看板または立看板
建看板というのはりっぱな方で、立看板は粗末なものをいう。
薬屋
建看板については「守真澄稿」には
建看板は溝外の路上に係るを以て、必ず官に請ケン(テヘンに僉)使を得て栽之也、京坂は路狭きが故に不製之江戸諸所有之本町四丁目殊に多く彫物等甚精美の物あり。看板及柱の価と官に許ひケン(テヘンに僉)使を給ふ等の諸費其小き物金七八十両多きは百四五十尚也
とある。実に豪勢な看板である。
呉服店
しかしそれは単に製薬店のみならず、大呉服店も使用していた。すなわち日本橋の越後屋の図を示すと建看板を使用している。
越後屋は当時越後屋三井呉服店といっていた。創業は延宝元年(1673)、のち大火のため類焼して現在のところに移転したのは天和三年(1683)である。当時道をはさんで両側にあった。右側が室町二丁目、左側が駿河町、それが順次に繁昌して、明治三七年に「三越呉服店」になったのである。ここに注意すべきは、越後屋の建看板には、「げんきんかけねなし」としるされてある。すなわち正確には「現金懸値なし」である。しかしそれは世界小売商店史上特筆すべき劃期的の大飛躍である。「現金」とは現金販売製のことであり、「懸値なし」とは正札制の樹立である。当時の大商店は常顧客に対しては、年二回盆と暮の支払いの商慣習を弊履のごとくに破棄して現金販売を実行したのは延宝元年(1673)、したがって廉価販売をした。正札制とはその当時は商品にことごとく符牒を付し顧客によってその定価を上下した弊風を断然やめて、商品に一々正札をつけて販売した。この正札制を実行したのは「三井家旧記」によると天和三年実に一六八三年のことである。かくて江戸随一の呉服店として繁昌した。しかるに米国の史家は世界最初の正札販売はニューヨークのA・T・スティワート商店で、一八二三年であるとし、これが正札販売の世界的嚆矢と誇っているが、何ぞはからん、わが国のほうが米国より一四〇年前である。ゆえに世界における正札販売制の創始は実に越後屋なのである。越後屋の現金掛値なしの断行については込み入った原因があるが、それについては、拙著「広告文化の課題」(昭和二三年五月千葉商事KK出版部刊)中「定価で訴求する広告」に詳説してあるので、ここには割愛したい。越後屋の後身「三越」が現に日本第一の百貨店として殷賑をきわむるも、もとより当然とせねばならない。
また当時有名な呉服屋店としは銀座尾張町に布袋屋、亀屋、恵比須屋があった。その絵で見ると、亀屋と恵比須屋は屋根つきの屋根看板であるが、布袋屋は、建看板を立てている。
また屋根のないのを単に立看板といっていたが、その古いものは「画証録」(喜多村信節著天保一〇年板)によると
古屏風の絵に四条河原の観せものどもがきたる内かぶき芝居の小屋のやぐらの下に、庵形の札あり。六条三筋町の傾城出て歌舞きするように書付たり。此芝居はいまだ興行せざる体也。又女かぶき興行の処をもかきたり。其体いさゝか下に摸す。慶長
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四 箱看板 箱看板というのは、次ぎの絵に示したおしろい屋の看板のごときものである。
筆屋
箱看板に軸の太い筆の絵を画き、その貼り紙の所に店名を書くのである。その他箱看板に商品の絵を書くものに簪屋、白粉屋、鉄物屋、図引道具屋があり、また箱看板に商品の名をしるすものに本
屋、組紐屋、綿屋、料理屋(繁華街にある)などがある。
本屋を重ねていうと耕書堂は絵草紙店であるがゆえに「紅絵問屋」と文字のみを書き、その上に商標を画いてある。また鶴屋の全図(一〇四、一〇五ページ)を示してあるが、店頭の左隅に箱看板を出し、それには「さうし問屋」「本問屋」と文字で現わし、その上には、定紋の商標を入れてある。鶴屋とは南伝馬町錦絵問屋で、寛政一二年(1800)のものである。
絵の具屋
箱看板に青、黄、赤の三色で丸を画く、色彩を現わしたものである。
艾屋
江戸時代に有名な艾といえば団十郎艾がその代表のものである。すなわち団十郎の家紋なる三升の紋の目印で売り出した。その名は諸国にあまねく知られ、江戸市中に販売店は数カ所あったが、有名なものに笹屋と三升屋とがある。店頭はいつも人をもって埋まるという繁昌をきわめた。「近代世事談」(享保一八年板)に 団十郎艾、元禄のはじめ、神田鍛冶町箱根屋庄兵衛といふ者、箱根の湯泉晒と称して切艾を製す、看板あるひは艾の印に三ッ角の紋を付る。これ市川団十郎といふ芝居役者の紋なり。此切艾の製よろしとて江戸中に流布す。是を倣ひ所々に切艾の製あり。庄兵衛が印を模して、おのおの三ッ角の紋を付て、三升屋兵庫、市川屋何某などゝ名を付てこれを売るなり、団十郎がはじめたるにあらず。
この記述のごとくに団十郎の創製ではないが、当時人気絶頂の人気役者の紋を商標とし、また芝居狂言にも仕組まれたがゆえに、その名遠近に喧伝され、流行を来たしたのである。つまり団十郎の人気に便乗したので大流行を招いたのも当然といわねばならない。
「江戸総鹿子名所大全」(延宝四年板)には
団十郎艾  浅草御堂前  笹屋藤助
元禄のはじめにや神田かぢ町筥根屋庄兵衛と云もの、初めて切もぐさを製して売弘めける、其家の目印に三升を附ける、是歌舞伎の市川団十郎が紋なる故、世に団十郎もぐさとは云ひける。其後芝居にても狂言に仕組けるにや、此藤介が先祖、古団十郎がもぐさ売の姿を、木偶人に彫刻みて看盤として艾を売弘めける。其頃は並木町に住せしが、寛永年中今の御堂前に移り住す、此家の製他に勝れたり、されば此家の管板人形をニ代目団十郎(当時海老蔵と云、俳名柏延)父が遺像なればとて、年忌には此家に乞て肖像を彩色修補し、厚く敬ひ返すよし、其孝心ゆへにこそ、歌舞伎役者の棟梁と仰がれ、三歳の児も団十郎はいかにと問へば、口を開きて真似、山野の田夫も江都に出れば、先見ん事を欲す、異国人も其名を知りたる由、落葉合といふ俳書に、母の堅固を生涯の花とある句も、現存の母に仕へて、孝なる心中より流出せしものなれば聞人の耳に徹し、世人も口すさむ成るべし。
とあるので証とすることができる。狂言に仕組まれたことについては
「役者全書」(安永3年板)団十郎艾の条に
市川柏莚いまだ団十郎といひし頃、宝永六年山村座にて、中将姫狂言に久米八郎にて初てもぐさ売を勤む。其後延享四の春、中村座にて又々此役を勤む。世上に
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