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平城朝ではあまりに仏教が興隆するにつれ、道鏡のごとき極悪非道な輩が出てきた。護国のための仏法は本末顛倒して、仏教のために国家が犠牲に供せられんとした。仏教政治の弊害ここに至ってきわまれりというべきである。その他僧侶の悪弊数うべくもなく、ここにおいてが汚れ果てたる都を棄てて人心を新たにし、政治を革新すべく、いさぎよく新規蒔き直しとして遷都が断行された。
桓武天皇(781~806)が都を平城から山背国長岡京に遷されたのは延暦五年(786)五月であった。しかも長岡は不都合な点があって、八年後には都を平安京に遷された。この長岡京は遷都とはいうものの、この建築もじゅうぶんに完成せず、民衆は日用品にすらさしつかえるありさまで、政府は左右京の人々や東西市の市人に、これを頒給して一時の急を救うていたのであった。
「日本紀略」によると
延暦十三年七月辛未朔、遭東西市於新京、丁丑造廛舎且遷市人。
とある。すなわち一三年七月一日に東西市を長岡京から平安京に遷し、七日に一廛舎を造って市人を遷した。その間六日間で造った廛舎は粗末なものであったに違いない。この平安京こそ現在の京都で、非常に大きいりっぱな都で、その後明治天皇(1866~1912)の東京奠都に至るまで、実に一〇七〇余年間の帝都であったが、政治の中心がこの都にあったのは最初の約四〇〇年間で、その時代を平安時代というのである。
さて東西市の位置であるが、それを明確に示したものに「拾芥抄」がある。これは平安時代最初のものでなく、京都が兵燹にかかって灰燼に帰した応仁の乱(1467~1477)以前のものであるから、とにかく最後の最も盛大であった当時のものといってよい。それによれば東市は左京にあって、南北は七条坊門と七条との間、東西は堀川と大宮との間の四町に「市町」と地図に記入してある。しかしこの四町のみが市町のごとくに見ゆるが、それはただ市の屋と内町とをしるしただけで、四町以外に外町八町があり、合わせて一二町であった。ゆえに厳格にいうと南北は左女牛から塩小路まで、東西は大宮より堀川まで五町ずつ八町。また南北は七条坊門から七条まで、東西は櫛笥、大宮間に二町、堀川、油小路間に二町、合計一二町に「市町」としるしてあるから東西市とも一ニ町ずつあったのである。これは要するに西市は右京にあって東市と対称的な同一配置であった。平城京の東西市はともに六町にすぎなかったが、平安京にあってはその倍の一二町あったのである。いかに盛大であったかを知るべきである。市の建物の外観は明瞭ではないが、四天王寺所蔵の扇面法華経下絵によると、丸木の柱に板葺き屋根で、床を張らない粗末な造りであり、商品は棚に載せ、あるいは地面に置き、あるいは軒端にかけて売っていたものらしい。
平安時代の初期には東西市の法制は大宝令の関市会がそのままに適用されていた。しかし大宝今は唐の市場法をそのまま踏襲したものであり、かつはわが国の慣習に合わないものが多々あったのみならず、また一方社会状態が年を経るに従って変化してきた。ゆえに制定以来約八○年後の平安時代に、それを適用するに、はなはだしく困難を感じたので、是正せんがために、あるいは「弘仁式」 「貞観式」の撰定があり、それ以外に歴代に多数の格が出されてあったので、諸司は事に触れて検閲に忙殺され、行政事務に難渋を生じ、ついに延喜五年(905)に「延喜式」を撰定せざるをえなかった。したがって東西市司の規定もまた面目を改めた。しかし厳格にいうと「延喜式」の完成は延長元年(923)一二月であるから「大宝令」の制定した大宝元年(701)をさること実に二二二年後である。すなわち二〇〇余年間も同一法令が基本法として行われていたということは、この間数次の式と多数の格とかが出たにもかかわらず、あまりにも保守的であって、立法機関が全然その機能を失うていたのも当然とせねばならない。しかし延喜式といえども一種の衡平法にしかすぎない。基本法としてはやはり「大宝令」が依然として効力を失っていなかったのである。
東西市司についての規定は「延喜式」巻四十二(左京職)に収められ、その条文はすべて十三箇条である。
「凡市皆毎廛立ぼう(片へんに旁)題号、各依其廛読色交関。不得彼此就便違越」
「凡毎月勘造沽価帳三通送職、職神署、即以職印印之、一通進官、一通留職、一通付司」
「凡売買不和較固者、市司進捉勘当」
「凡商売上輩、沽価之外、若有妄増物直者、不論蔭贖、登時見決。」
「六衛府舎人等、不得帯剣入市」
「凡毎月十五日以前集東市、十六日以後集西市」
以上は六箇条をあげたが、他のものはここには用がないのではぶいたのである。
以上を略述すると、第一の廛のぼう(片へんに旁)および交関の品目種類の制限を規定したものである。傍を立て号を題すごとはイチノクラの名を書いた看板を立てること、たとえば「絲纒」 ¬米纒」と書きつけぼう(片へんに旁)号以外のものをいっさい販売してはならない。つまり所定のある一種の物品のみを専売せしめて各廛を保護する主旨である。つまり現代語でいえば一品販売主義の専門店を奨励した。要するに各専門店はその販売商品の看板を標識せねばならない。
第二は沽価長の規定で、大宝令の第二条中に規定したものを改補したものである。すなわち令には一〇日に一
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